大阪高等裁判所 昭和62年(う)1202号 判決 1988年2月17日
主文
原判決を破棄する。
本件を大阪地方裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人江頭幸人それぞれ作成の各控訴趣意書記載のとおり(ただし、弁護人において、被告人の控訴趣意は、弁護人の控訴趣意と同旨の主張に帰する旨釈明)であり、これに対する答弁は、検察官永瀬栄一作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
各控訴趣意中訴訟手続の法令違反の主張について
各論旨は、原判決が証拠の標目中に掲げた被告人の検察官、司法警察員及び司法巡査に対する各供述調書、並びに、被告人の検察官及び司法警察員に対する各弁解録取書は、いずれも任意性に疑いがあり証拠能力のないものであるから、右各証拠を有罪認定の用に供した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
そこで、各所論と答弁にかんがみ、記録を精査した上、当裁判所は、次のとおり判断する。
一まず、原判決が、被告人の所論各供述調書、弁解録取書及び勾留質問調書(以下、これらを一括して、「供述調書等」という。)の任意性を肯定するにあたり認定した事実に、証拠により明らかな事実を一部補足して摘記すると、次のとおりである。
(1) 被告人は、昭和六二年五月九日午後九時二〇分ころ(なお、原判決の右時刻の認定は、<証拠>に依拠すものではあるが、被告人は、「午後七時半から八時ころ」としている。)、大阪市北区内の通称扇町公園内において、付近のスーパーマーケット「マルサンデパート」の値札を貼つたままのウイスキーを、居合せた浮浪者に飲ませてやつていた際、警ら中の警察官から職務質問を受け、当初、氏名、生年月日、本籍等を偽つて述べたため、最寄りの曽根崎警察署天神橋四丁目派出所(以下「派出所」という。)へ任意同行を求められた。
(2) 同派出所内において、被告人は、警察官から、まず、所持品の提示を求められて、右ウイスキー、菓子、鍵二個などを提示し、更に、靴下の中を調べるために靴と靴下を脱ぐように求められて、これにも任意に応じた。
(3) 警察官から、提示した右ウイスキーについて尋問された被告人は、当初、天神橋のスーパーマーケットで買つたものである旨弁解したが、追及を受けて、右スーパーマーケット前にあつた自転車の荷台上にビニール袋に入れて置いてあつたのを持ち去つたものである旨供述した。
(4) その後、被告人は、前記鍵二個の用途について尋ねられ、身の廻り品を入れている寺院のロッカーの鍵であると説明したため、警察官から右ロッカーヘ案内するよう求められ、大阪市内の寺院二か所(大淀区内の清風寺及び城東区関目所在の清現寺)のロッカーへ、パトカーに乗つて警察官を案内した上(なお、パトカー内では、後部座席中央に座つた被告人を両脇からはさむ形で、二名の警察官が席を占めた。)、内部の所持品の検査に応じたが、翌一〇日午前二時ころ、派出所に戻つて、再びウイスキーについての取調べを受けると、今度は、都島のスーパーマーケットで買つた旨弁解した。
(5) 被告人は、その後、追及を受けて、同日午前三時前ころ、「五月九日午後五時ころ、天神橋筋のスーパーマーケット内でウイスキーを盗んだ。」旨、本件起訴にかかる窃盗の事実を自白したが、更に、所轄の曽根崎警察署へ任意同行ののち、同署の警察官の取調べを受けると、再び、買つたものである旨弁解し、同日午前四時ころ(原判決書四枚目裏末尾から四行目には、「午後四時ころ」とあるが、「午前四時ころ」の明白な誤記と認める。)に至つて、再び前同様の自白をするに至つた。
(6) そして、被告人は、警察官の求めに応じて、右自白にかかる犯行場所である大阪市北区天神橋二丁目北二番二六号所在のマルサンデパート(新生実業株式会社代表者代表取締役佐藤将一経営)に警察官を案内したのち、同日午前五時三〇分ころ、同署において、右ウイスキー窃盗の事実で緊急逮捕され、弁解録取ののち、同日午前七時ころまでにかけて、司法巡査Aの取調べを受け、本件犯行の概略を認める自白調書を作成された。
(7) 被告人は、右逮捕に至るまで、取調べの警察官に対し、取調べを拒否して退去を求めたことはなく、また、以上の警察官による取調べを通じ、担当の警察官に対し、疲労や睡気を訴えて、休息や睡眠を取らせるよう申し出たり、そのような行動に出たこともなく、取調べに応じてきた。
(8) その後、被告人は、昼食の時間を除いて同署の留置場で睡眠を取り、同日午後五時ころから午後一一時にかけて、途中夕食をはさんで司法警察員Bの取調べを受けた際、さきの自白と同旨の供述をし、以後は、同月一一日の検察官による弁解録取、一二日の裁判官による勾留質問、一五日の検察官による取調べにあたつても、一貫して右自白を維持し、その都度、自白を内容とする弁解録取書、勾留質問調書及び供述調書に署名指印した。
以上のとおりである。
そして、以上の事実関係については、警察官が当初被告人に対し職務質問をした時刻、及び被告人が派出所内で退去を申し出た事実の有無等二、三の点を除き、被告人もおおむねこれと同旨の供述をしているところであり、ほぼこれを是認し得ると考えられる。
二以上の事実認定に基づき、原判決は、被告人が緊急逮捕されるまでの取調べが、「いまだ任意捜査として許容される限度を超えていないにしても、」深夜長時間にわたつたことは否定できないとしつつ、(1) 被告人が、午前三時前に派出所内でいつたん自白しながら、その後曽根崎警察署では、右自白を覆して再び弁解に転じていることからして、被告人は、この段階でも、なお自己弁護の能力に減退を来たしていなかつたと認められること、(2) 曽根崎警察署での確定的な自白は、派出所内での自白からわずか約一時間後のものであり、被告人は、その間、取調官に対し、退去や休息、睡眠を取らせるよう申し出たり、そのような行動に出なかつたことなどの理由を挙げて、(3) 午前四時ころの曽根崎警察署における確定的な自白は、疲労困憊による不任意の自白とは認められないとし、その後の弁解録取、勾留質問、取調べの際の自白についても、任意性を疑わせる事由は認められないとしている。
三そこで、まず、被告人に対する天神橋四丁目派出所及び曽根崎警察署における取調べが、任意捜査として許容される限度内のものであるか否かについて検討するのに、任意捜査の一環としての被疑者に対する取調べは、単に、強制手段によることができないというだけでなく、更に、事案の性質、被疑者に対する容疑の程度、被疑者の態度等諸般の事情を勘案して、社会通念上相当と認められる方法ないし態様及び限度において、許容されるべきものである(最高裁判所昭和五九年二月二九日第二小法廷決定・刑集三八巻三号四七九頁参照)。ところで、原判決の認定によれば、本件において、警察官は、五月九日午後九時二〇分ころ、扇町公園内で被告人に対し職務質問を開始したのち、被告人を最寄りの天神橋四丁目派出所へ任意同行して、所持品検査を行う一方、所持していたウイスキーの出所を追及し、被告人が、スーパーマーケット前の自転車の荷台上にあつたのを持つていつた旨供述したのに、更に、所持品中の鍵の用途に関する供述の真否を確認するため、深夜、パトカーに被告人を乗せて、その供述する二か所の寺院のロッカーへ案内させるという「引当り」をし、午前二時ころ、派出所に戻つてからは、再びウイスキーの出所の追及を行い、午前三時前ころには、身柄を曽根崎警察署に移し、その間、仮睡や休けいの時間を与えずに、ほぼ間断なく徹夜で取調べを続け、午前四時ころ、ついに、被告人をして確定的に自白させるに至つたというのである。このように、被疑者を徹夜で追及して自白させるような取調べ方法は、逮捕・勾留中の被疑者に対する場合であつても、これを必要とする特段の事情があつて相当と認められない限り、許容されないと解すべきであつて、まして、任意捜査の名のもとに行われたそのような取調べが、当然に是認されるとは、にわかに考え難いといわなければならない。しかも、本件において、被告人に向けられた犯罪の嫌疑は、たかだか時価約三〇〇〇円相当のウイスキー一本の窃取であつて、右は、被告人の窃盗の前科との関係で常習累犯窃盗罪を構成する可能性があつたことを考慮に容れても、重大な法益侵害を伴う事案ではないし、また、被告人は、かりに自ら積極的に取調べを拒否して立ち去る態度を示してはいなかつたにしても(被告人は、取調べの途中帰らせて欲しい旨希望を述べたと供述しているところであるが、それを措信しないとしても)、少なくとも、自ら徹夜の取調べを積極的に希望していたものでないことは明らかであり、結局、取調べを拒否して立ち去ろうとすれば嫌疑をいつそう深める結果となることを懸念して、警察官の執ような取調べに対しやむを得ず応じていたにすぎないというほかはない。このようにみてくると、本件において警察官が被告人に対して行つた、五月九日夜から翌一〇日早朝に至る徹夜の取調べは、派出所内での取調べ開始後間もなく、被告人が、最終的な自白の内容とは異なるにせよ、ウイスキーの窃取を認める趣旨の供述をしていて、右窃盗の嫌疑がかなり濃厚になつていたことを考慮に容れても、任意捜査として許容される社会通念上相当な限度を逸脱し違法であると認めざるを得ない。
確かに、本件においては、当初、警察官から職務質問を受けた際及びその前後の被告人の態度・応答に、多分に不審な点があつたこと、被告人が住居不定の浮浪者であつて、いつたん立ち去ることを許せば、ウイスキー窃取の嫌疑のある被告人に対しその追及をすることが事実上不可能になると思われることなど、捜査の必要性の存したことは、これを理解することができないわけではない。従つて、警察官において、被告人に派出所への任意同行を求め、その承諾を得て所持品検査を行い、ある程度の時間、ウイスキーの入手経路について供述を求める程度のことは、前示の基準に照らし、任意捜査として許容される限度内のものというべきであろう。しかし、任意捜査としての取調べに、おのずから限界の存することは、前示のとおりであつて、捜査の必要性があるからといつて、本来許されるべきでない捜査方法が許されることになつてはならない。特に、本件においては、被告人は、派出所における取調べ開始後それほど遅くない段階で、最終的な自白の内容とは異なるにせよ、ウイスキー窃取の事実を認める趣旨の供述をしていたのであるから、警察官において、被告人の身柄を確保してウイスキー窃取の事実を追及する必要があると考えたのであれば、右自白に関する最少限度の裏付け捜査を遂げた上、被告人を緊急逮捕し、直ちに逮捕状の請求をすべきものであつて、このような手段に出ることなく、任意捜査の名のもとに、被告人を事実上派出所内及び警察署内に更に留め置いて、徹夜でウイスキーの出所を追及するような捜査方法は、その衝に当たつた警察官の主観的意図が奈辺にあつたにせよ、結果的には、令状主義を潜脱して、強制捜査としても当然には許されない取調べを任意捜査に籍口して行つたとの非難を免れ難いものというべきである。
なお、付言するに、前示の最高裁判所の決定は、被疑者を四夜にわたりホテル等に宿泊させて連日長時間取り調べたことが、任意捜査の限界を越えるものでない旨判示している。しかし、右事案は、殺人という重罪の容疑の強い被疑者が、自ら、寮に帰るのはいやなのでどこかの旅館に泊めていただきたい旨の答申書を提出している特殊な事案に関するものである上、右事案では、警察官も被疑者に対し夜間の睡眠時間はこれを与えているのであつて、これらの点において、本件とは明らかに事案を異にすると考えられるばかりでなく、右決定は、これに二名の裁判官の実質的な反対意見が付せられていることからも窺われるように、まさに限界的な事案に関するものと考えられるので、右判旨の結論を、具体的事情を異にする他の事案へ安易に推及することは、厳に慎しまなければならない。
以上のとおりであるから、当裁判所は、被告人に対する五月九日から一〇日にかけての警察官の取調べが、任意捜査として許容される限度を超えていないとする原判断には、賛同することができない。
四次に、右のような取調べの結果作成された被告人の供述調書等の任意性の存否について検討する。
本件のように、警察官が、午後九時二〇分ころ被疑者に対し職務質問を行つたのち、最寄りの派出所に任意同行を求め、その後、パトカーによる寺院二か所への引当りをはさみ、翌朝午前四時ころに至るまで、右派出所及び警察署において、その所持するウイスキーの出所又はその余の所持品の用途等について、途中、仮睡や休けいの時間を与えずに、ほぼ間断なく夜間の取調べを続けるときは、そのこと自体が、被疑者の身心に著しい苦痛をもたらすと考えられる上、前示のように、それが任意捜査として許容される限度を逸脱した違法な取調べである場合には、その後に得られた被疑者の自白については、たやすく任意性を肯定し得ず、むしろ、このような自白には、他に、かかる違法な取調べの影響の遮断された状況で自白が得られたこと等特段の事情の存しない限り、任意性に疑いがあり、証拠能力がないものと解するのが相当である。
かかる観点に立つて、本件について検討するのに、原判決は、前示のとおり、(1) 被告人が、曽根崎警察署において、派出所でした自白をいつたん撤回していること、(2) その後の確定的な自白は、当初の自白から、わずか一時間後のものであることなどを根拠に、曽根崎署における確定的な自白の任意性を肯定しているが、右(1)(2)の事実が、自白の任意性を肯定するに足りる特段の事由にあたるとは考えられず、記録を調査しても、他に、被告人の同署における五月九日早朝の自白(司法巡査に対する弁解録取書及び司法巡査に対する供述調書)の任意性を肯定するに足りる特段の事情は存しない。また、同日付司法警察員に対する供述調書は、いつたん被告人に睡眠を与えたのち、同日夕刻から夜間の取調べにより作成されたものであるが、前示のような警察官の違法な徹夜の取調べにより犯行を自白した者が、その後睡眠を与えられたのちに、同日、同一警察署の他の警察官に対し再度自白したからといつて、それだけでは、右自白が前示の取調べの影響を遮断された状況のもとでなされたとは考え難いから、右供述調書の証拠能力も、同日付の他の供述調書等と同様、消極に解すべきである。次に、検察官に対する弁解録取書(五月一一日付)及び供述調書(同月一五日付)については、警察官の場合と全く同一に論ずることはできないけれども、取調べの主体が、同じく捜査官であることにかんがみ、検察官において、警察官による前示のような違法な取調べの影響から被告人を脱却させるための特段の措置を講じていない以上、警察官作成の供述調書と運命を共にすべきものと解すべきである。(これに対し、裁判官による勾留質問調書については、逆に、他に特段の事情のない限り、その証拠能力を否定されないと解する。最高裁判所昭和五八年七月一二日判決、刑集三七巻六号七九一頁参照)。しかして、記録によれば、本件においては、検察官に対する供述調書等の証拠能力を肯定するに足りる特段の事情及び裁判官による勾留質問調書の証拠能力を否定するに足りる特段の事情は、いずれもこれを認めることができない。なお、検察官は、当審弁論において、徹夜の取調べによつて得られたからといつて、自白の任意性の疑いが生ずることはないとして、高等裁判所の判例を援用するが、右援用にかかる各判例は、取調べ時間の長短、本人の希望の有無、適法な身柄拘束中の取調べであるか否かなど、種々の点で本件と事案を異にしており、いずれも適切な先例とはいえない。
五そうすると、現在の証拠関係に照らす限り、原判決が証拠の標目中に掲げた被告人の起訴前の自白のうち、証拠能力を肯定し得るものは、裁判官による勾留質問調書のみであつて、(ただし、勾留質問調書についても、その前後の捜査官の前示のような取調べ方法等にかんがみ、信用性の判断には慎重を要する。)、その余の供述調書等は、いずれも証拠能力を否定すべきものであるから、これらの起訴前の自白の証拠能力をすべて肯定して有罪認定の基礎とした原判決には、訴訟手続の法令違反があるといわなければならず、また、本件については、証拠能力を否定すべき各供述調書等を除外したその余の証拠のみによつて、有罪の認定を維持することができるとは、にわかに即断し難いというべきであるから、右訴訟手続の法令違反は、判決に影響を及ぼすことが明らかである。
よつて、弁護人及び被告人のその余の論旨につき判断するまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条本文に則り、被告人の検察官に対する供述調書等の証拠能力の存否及び右供述調書等の証拠能力を肯定し得ない場合に、その余の証拠によつて被告人を有罪と認め得るか否か等につき、更に審理を尽くさせるため、本件を大阪地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官野間禮二 裁判官木谷明 裁判官生田暉雄)